「今朝は本当にありがとうございました.今度お返しをしないと」
隣に座っていた彼女はようやく息を整えて,セーヤのほうを向いて頭を下げた.
「……いや,ばんそうこうの1枚くらいどうでもいいですよ」
さすがにそれだけでお返しをされるのも気が引けたので,丁重にお断りさせていただいた.
「そうですか? あのー,いつもここでお昼を食べているんですか?」
セーヤは「うん,そうだよ」とだけ答えた.まさかあれだけのことでここまでされるとは思っていなかったので,セーヤは何を話していいのか分からなかった.
(どんな話題がいいんだろう?)
パンをほおばりながらセーヤが何を話そうか考えていると,ユズカは彼の表情があまりいい感じではないととらえたのであろうか,
「あ,あの~,もしかしてお邪魔ですか? それなら……」
と不安げに言うと,セーヤはとっさに,
「うんん,別に邪魔ってわけじゃないんだけどさ……,何を話したらいいか分かんなくて」
とつい本当のことを言ってしまった.なんかまずいと思ってしまった.
一瞬まるで時が止まったかのように何の音も聞こえなくなったかと思うと,すぐにユズカが明るい口調で答えた.
「フフッ,そうでしたか.あの,気にしなくていいですから」
彼女が明るくなった印象を受けて,いい機会だから聞いてみようと思ったセーヤは,なぜか後ろめたい気持ちがあったが思い切って聞いてみた.風が吹いて,彼らの上で葉っぱと葉っぱが擦れ合い,カサカサと鳴った.
「あのさ,ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「はい?」
「あの……,赤吹さんってもしかしてなんとかサツキっていう歌手の人? 確か,最近の歌番組で見たあの人とは顔は似てるけど髪の毛の長さも違うし色も黒いし…….それに,今朝学校に着いたときのあの盛り上がりかたは異常だし」
万が一間違っているといけないので,彼女を傷つけないようやわらかい口調で,彼女のほうを向かずに校舎のある一点をみつめながらそう言った.言ったつもりだった.
「……いいえ,違いますよ…….私,よく似てるって言われるんですけどね……」
セーヤはその答えを聞いてようやく心のモヤモヤ感が晴れたような気持ちだった.しかし,彼女の言葉を聴いているとなぜか疑問は晴れたのに後ろめたい気持ちは残ったままだった.
「あ,そうだよね.今朝会ったときもそんなこと言ってなかったし,みんなが勘違いしてるだけだろうね」
「……」
ユズカは急に下を向いて黙りこくってしまった.その様子は明らかにさっき,質問する前とは違うと察したセーヤはすぐに聞いた.
「え,あの,なんか気に障るようなこと言ってしまった?」
「ううん」
さっきより低い調子で,首を横に振りながら答えた.セーヤは無理にでも彼女が急に静かになった理由を探し出し,彼女が持っていなくて彼が持っているものが1つあったのでそれを言ってみた.
「あ,もしかしてごはんまだ? まだなら,このパンあげようか?」
「えっ……?」
ユズカは彼の唐突な質問に少し笑顔を取り戻したそのとき,ぐぅ~っという,お腹がすいたときの典型的な音が聞こえた.
「あっ」
ユズカはまた下を向いてしまったが,今のはさっきの様子とは違い明らかに恥ずかしがっている様子だった.
「はい,これ.もうこれしか残ってないけど,ないよりはましだろうから.あと,これはあとでお返ししてほしいかな,なんて」
「ハハ……,ありがとう.いつかお返しするね」
セーヤに向けてほほえんで言った.ユズカが彼からもらったパンをほおばると,それが気に入ったのかおいしそうに食べた.
「……それにしてもどうしてみんな間違えるんだろうね.そんなに似てるのかなあ」
セーヤにとって何気なく言った一言だったが,そう言うとおいしそうに食べていた彼女の目が急に悲しそうになり,口の動きもいくぶん鈍くなったような気がした.
「パン,ありがとうございました.それじゃあ」
そうとだけ言うと彼女はすっと立ち上がり彼のもとを離れた.彼女の最後の一言は調が低く,彼女のうしろ姿からはなにかものさびしさを感じた.
もしかしたら彼女にとって“如月サツキ”というワードは禁句だったのかもしれないと考えると,自分の言ったことに後悔の念を抱くようになった.
昼休みが終わってセーヤは急いで教室へと戻った.教室に入るとすぐに,ケンの怒鳴るような大声に歓迎された.
「おい,セーヤ! お前,昼休みもサツキちゃんと話してただろ!?」
「なんでそのことを?」
セーヤが疑問符を浮かべながらきくとケンは自慢気に,
「俺はサツキちゃんのファンだからな.一秒でも長く愛しいサツキちゃんを見ていたいのさ.お前には分からんだろう,この気持ち」
「でも,彼女はその人じゃないって言ってるぞ.他人の空似ってやつじゃあ……」
「それでもいいじゃん.サツキちゃんと話せて.俺なんかほぼ門前払いだからなあ……」
どうもケンには赤吹=如月としか認識していないのであろう,答えが変だった.むしろ逆に彼女以外の人と話すときは,赤吹=如月と考えたほうがなにかと都合がいいかもしれないとも思った.
二人はふと廊下を見た.
ばっちりきめた蝶ネクタイにスーツ姿の五十嵐先生が,軽快なステップを踏みながらたいそうご機嫌な様子で歩いていった.次は2―5で授業なのだろう.噂によると,あの五十嵐先生は如月サツキの大ファンらしい.2―5も彼は受けもっているので,先生の喜びは尋常ではないはずである.噂によらなくてもあの様子を見れば明らかだった.
「ケン,見た? 今の.蝶ネクタイだぞ,実際に人がつけているところなんて初めて見た」
「ああ,ああにだけはなりたくないよな」
五時間目は化学の授業,のはずであったが隣りの五十嵐先生がハイテンションで,大声すぎて彼らの教室にまで響き渡ってしまい,まるで英語の授業を受けているかのようであった.
放課後セーヤは部活へ行った.いつものように,第三体育館の裏の吹奏楽部とオーケストラ部の共同練習場の二階でトランペットを吹く.彼のトランペットの腕はきわめて中間点である.
「先輩,あの如月サツキさんと話をしたそうですね」
後輩のフルートを吹くリホが,セーヤのところに来ていた.
「秋瀬さん,なんでそれ知ってんの?」
セーヤは赤吹=如月の考え方を採用してこう返事をした.
「何言ってるんですか.先輩今日,彼女と一緒に来てたじゃないですか.会話してないほうがおかしいですよ」
「そ,そうだよね,はははっ.あっ,でもたいしたことは話してないよ.うん,別に……」
別にあせる必要もなかったのだが,なぜかセーヤはあせってしまった.そしていつもより大きい音でトランペットを吹いたらむせてしまい,その様子を見てリホは変な違和感みたいなものを感じたが,そのまま自分のパートに戻っていった.
都会が赤く染まっている中,今練習中の曲を口ずさみながらセーヤはひとり自転車をこいだ.家についてもただいまも言わずに二階の自分の部屋に入っていった.
「お兄ちゃんおかえり~」
部屋の中にはミミがいた.自分の部屋でも間違えたかと思ったが,部屋のレイアウトを見る限りその部屋は彼の部屋だった.
「ちょっと辞書借りてるよ……ってなんか今日お兄ちゃん変だね.何かあった?」
ミミは自分の兄の何らかの変化に気づいたかのようにそう言った.
「さすがミミ.妹なだけあってお前にはわかるか……」
「ふ~ん.……何があったか知らないけどさ」
ミミは根掘り葉掘り聞こうとせず,そしてそのままセーヤの部屋を出て行った.
「あんまり悩んだり落ち込んだりしててもだめだよ,お兄ちゃん.時間はそのために止まってはくれないんだから」
扉を閉める前にミミが言ったこの言葉に,セーヤは妙に敏感に反応した.以前,妹が男性に振られて落ち込んでいたときに,彼がミミにかけた言葉とまったく同じセリフだったからだ.
「ハハ……,まさか僕が言われる側になるとはな」
ミミの言葉がよほど胸に響き,セーヤは気を引き締めるためにメガネをはずして両手で顔を思いっきりたたいた.
あれから数日たっただろうか,人気者のサツキに会うことは容易ではなかった.
四時間目終了後,いつものようにセーヤはあの木の所に行った.その場所はいつもと違って人が,ユズカがいた.ベンチに座ってうつむいていた.セーヤはここを逃してはもうチャンスがないかもしれないと,つばをごくりと飲んで一歩一歩近づいていった.
「赤吹さん,えっと,あ,あのー」
次の言葉が出なかった.どうしても言わなければいけないことがあるのにどうしてもその言葉がのどから出すことができない.
「は,橋野君?」
突然不意を衝かれたように声が聞こえたので彼女は驚いて,顔を上げた.一瞬目が合ったがそれが2人にとっては異様に長く,しかしとても短く感じられた.
「えっと,どうしたんですか,ここに来て」
ついとっさにほかの言葉が出てしまった.その質問の返答に困ったのか,彼女はもじもじするだけで答えようとはしなかった,……答えることができなかった.
「えっと……,その……」
その姿を見てセーヤは自分がしっかりしないでだれがしっかりするんだという気持ちになり,腹をくくって言った.
「……赤吹さん,ごめん!」
やっと言えた,セーヤは何か一気に脱力したようにスッとした.
「えっ? どうして謝るの?」
ユズカは何も心当たりがないために,予想外の謝罪にさっきより困ってしまった.
「えっ,あっ,いやー,この前変なこと聞いたこと.……赤吹さんは如月サツキじゃないかって.そう言うと,赤吹さん,急に暗くなったからさ,もしかしたらタブーだったのかって思って,それを謝っておきたくて」
ちょうどそのとき突風が吹き,木の葉が数枚2人の間をひらりひらりと宙に舞い,音も立てずに静かにその地に降り立つと彼女は話し始めた.
「……実は,謝るのは私のほうなんです.ごめんなさい!」
逆に謝られてセーヤにはわけがわからなかったが,彼女は続けて言う.
「橋野君には嘘をついていました.私は,みんなの言うとおり,……実は如月サツキなんです」
まあ,セーヤにはわかっていたことであったのでさほど驚きはしなかったが,でもどうしてうそをつく必要があったのか,それがセーヤは気になった.
「そうだったんだ…….でも,どうして嘘をついたの? 黙っておくことでもなかったんじゃあ」
再びユズカは下にうつむいた.
「私,本名は赤吹ユズカっていうんです.もちろん如月サツキっていうのは芸名なんですけど.前の学校では友達のみんなが私のことをサツキって呼んでいて仕方ないかって思っていたんですけど,だんだん私は“赤吹ユズカ”じゃなくて“如月サツキ”になっていっているようで…….私を“赤吹ユズカ”として見てくれる人がいないんじゃないのかって感じて…….そう思ったらたまらなく悲しくなって,それで思い切ってここに転校してきたんです.あの場所で初めて橋野くんに会ったとき,私を赤吹ユズカで見てくれて本当にうれしかったんです.せっかくこういう人に出会えたのに“如月サツキ”になってしまうんじゃないかって.……不安でならなかったんです.だから……,ごめんなさい!」
震えた声でユズカは話した.目からは大粒の涙があふれていた.信頼できる人に悩みを打ち明けられて,今までクサリで縛られていた彼女の純粋な心が今ようやく解放された.
セーヤは深く納得したおももちで,しかし,彼女に対しどうしてあげることもできなかった.声をかける言葉さえ見つからなかった.
しばらくして,ユズカは涙をぬぐって,
「ごめんなさい,今日はこれを渡そうって思っていたんです.学校の中ではできないからここで待っていたんですけど」
そう言うとある一通の手紙を彼に差し出した.
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