コトネがユズカを駅まで送ったちょうどその頃,セーヤは部活の練習に一息を入れていた.
「先輩! ちょっといいですか?」
「うわっ!」
突然背後から声がして驚き,そのあまりにひざの上に乗せていたトランペットを地面に落とすところだった.ちなみに,セーヤとほとんど同一の動作をしたのがもう一人,彼の隣で同じように気を抜いていたパートリーダー,トモジだ.唯一違う点は,地面(コンクリート)にトランペットを落としてしまったところだ.
「何2人して驚いてるの? っていうか,お兄ちゃん! トランペットを傷つけたらダメじゃない,お兄ちゃんの物じゃないんだから」
トモジは落ちたトランペットをすぐさま拾い上げ,傷がついたかどうかを確認した後ひとしきり落胆して,そしてこみ上げてきたその怒りの矛先を声をかけてきた彼女へと向けた.この間わずか四秒.
「バ,バッキャローッ! お前が突然声かけてくるから驚いたんじゃないか!」
「声かけたぐらいで学校の備品壊すくらい驚かないでよね.それに,お兄ちゃんに話しかけたわけじゃないんだから.私は橋野先輩に用があるの!」
「僕に?」
「橋野ッ! お前,俺の妹にいったい何をしたア!」
トモジがものすごい形相をしてセーヤの方を睨んできた.まさに,鬼.ほおが赤くなっているから赤鬼か.頭に角が生えているように錯覚してしまうほどの迫力.セーヤはもちろんのこと,彼の横でこれまでの状況を見ていた同じトランペット吹きの仲間たちも,その迫力(というかトモジのシスコンぶり)に引いてしまった.
鬼の仮面をかぶった先輩の後ろで,リホはポケットからあるものを取り出した.外見は小型円柱状の茶褐色をしたビンで,分かりやすくたとえるならば,栄養ドリンク剤に用いられるようなビン.ただしラベルは何も貼られていない.
「お兄ちゃ~ん?」
そう言いながらリホは取り出したビンのふたを片手で手馴れたように開けて,振り向いたトモジの口に思いっきり突っ込んだ!
「ガフッ,ゴフッ……,ングッングッ,ゴエッ」
どう見聞きしても猛毒を飲んでいるようにしか表現できない音を立てながら,トモジは妹に突っ込まれたビンの中身を飲み干していった.セーヤをはじめその一部始終を見ていたパート仲間はただただボーゼンとしていたが,リホはさも日常茶飯事のことのようにごく自然に立ち振る舞う.
飲み干したのを確認してからトモジの口からリホが茶褐色のビンを引っこ抜くと,彼はさっきまでの態度とは百八十度,いや,二百七十度も変わったかのように大人しくなって,燃え尽きて真っ白な灰になったように椅子に座りふけた.
「っていうか,もしかして,気絶してる?」
セーヤの後ろに隠れながらこれまでの兄妹劇を観賞していた,トランペット担当二年一組の桜川ユイナは恐る恐る言った.
「大丈夫です,先輩.10分もすれば気がつきますから」
ビンのふたを閉めてそれをポケットに戻しながらリホは答えた.
「……いったい何を飲ませたの?」
再びユイナは質問した.むしろ,残された四人のトランペッター達はそれが一番気になったと言った方が正しい.トモジのあの反応と気絶という結果,どう考えても毒物としか考えられなかった.
「あっ,これですか?」
そう言いながらリホはポケットから同じようなビンを二本取り出した.しかも中身は入っている.
「これはですね,対トモジ用沈黙剤『シベリアンK2』です」
(しべりあんけぇつぅ? どっかで聞いたことあるなあ)
「言っときますけど,これは毒じゃないですからね.片栗粉を水で溶かしただけですから.おいしくはないけど,人体には全くの無害……,のはずです」
「言い切れないんだ……」
ユイナは小さい声でツッコミを入れた.
「お兄ちゃんは水溶き片栗粉みたいなドロッとしたのが大の苦手で.これを飲ませればご覧の通り,効果はバツグン,暴走したお兄ちゃんが静かになってくれる,というわけなんです.便利でしょ?」
正にトントン拍子でリホは答えていった.悪びれる様子を微塵も見せず,見ようと思えば彼女の微笑みは悪魔の微笑のように見えた.同じように妹を持つセーヤは真っ白になっているトモジを見て,あまりにも不憫だと思い苦笑した.その彼の気持ちを知ってかしらずか,ユイナが,
「あんな妹を持つなんて,先輩も可哀そうよね.……まあ,先輩もちょっとシスコンすぎるけど.……っていうか,それ,いつも持ってるの?」
と言った.
「はい! いつも3本は携帯してます.何か起きると困るんで」
いったい何が起きるんだよというツッコミは心の中でした.
「……それで,僕に用があるんだって?」
久しぶりに,と修飾されるほどに強烈な出来事だったのだが,セーヤが口を開いた.本来の目的を思い出したのか,リホは手際よくビンをしまって言った.
「先輩,今日は帰り大丈夫ですか? いっしょに帰りませんか?」
「えっ,えっと……」
セーヤはトモジのほうを見た.さっきから変わらず真っ白になって気絶している.と言うか,すでに息途絶えているかのようにピクリとも動かない.
「お兄ちゃんのことなら心配しないでください.もしあれならもう1本飲ませますけど」
「あ,ううん,いいよ,気が引けるから……」
「それとも,今日も都合が悪いですか?」
「ううん,大丈夫.いいよ」
「そうですか,ありがとうございます.それじゃあ,またあとで」
小さな悪魔,もといリホはそう言いながら戻っていった.途中トモジの後頭部にきっちりとエルボーを与えていた.誰の目から見ても恨んでいるしか思えなかったが,あれが彼女の愛情表現なのかも,という思いもほんの少しだけ残していた.
「橋野君,大変ね」
「他人事でいいね,桜川さん」
「だって,他人事だもん」
「……先輩,燃え尽きてるなあ」
先刻約束したとおり,セーヤはリホと下校することになった.別に嫌というわけではなかったが,さきほどの悪魔の性格を見せつけられたので,いったい自分に何の用があるのか,内心少しビクビクしていた.
ちなみにトモジは,あれからリホが言ったように十分もすれば息を吹き返したが,何が起こっていたのか覚えていないようで,自分が使っているトランペットに傷が付いていることに気づいて大騒ぎしていた.事の経緯を説明しても,「オレの妹はそんなことは絶対にせん!」と受け入れようとせず,自らのシスコンさを露呈・強調させることとなった.
また,部活が終わってリホがカバンを持ってセーヤの所に来た時もトモジがひと騒動を起こしたが,同じ結末を迎えたことは言うまでもない.この時ユイナが,
「もしかして先輩って,いろんな意味でお笑い担当?」
と言ったのが妙に印象に残った.
「そういえばさ,秋瀬さんは幼なじみっている?」
「幼なじみですか? 何ですか,突然? ……いますよ,年下ですけど.今,彼女がいるらしいんです.誰かは教えてくれませんけど」
「……彼女がいるっていうことは,男の子なんだ」
「はい.まだ中学生なんですけど,憎らしいですよね~.はあ,私も彼氏ほしいなあ」
「えっ? 秋瀬さん,彼氏いないの?」
「いませんよ~」
「そうなんだ.(っていうか,あの兄がいるんじゃ作りたくても作れないよな)」
「……まあ,今日はそのことで先輩に相談というか,お願いしたいことがあるというか」
突然今までとはうって変わって女の子らしいというか,天使らしいというか,恥じらいをこめた言い方でそう言った.セーヤはもちろんその突然の変化を敏感にキャッチし,一体何を企んでいるのかと心の中で苦笑し,顔は引きつり,動揺を隠しえないでいた.
「……先輩,何か思い違いしてませんか? 私は無意味に突っかかってくるお兄ちゃんにだけ厳しいんですよ.早く妹離れして欲しいんです.今の私が本来の私ですよ」
ものの見事にリホに見透かされていた.
「……それで,お願いしたいことなんですけど,……先輩って,石部先輩のことご存知ですよね? 陸上部の……」
「石部先輩? ……ああ,ケンのこと?」
彼女の口からは,思いもよらない人物の名前が飛び出してきた.
「そうです」
「あいつとは小学生のときからの付き合いだからなあ.もう……,今年で7年目の付き合いになるのかな.それで?」
「あの,……石部先輩って,今,お付き合いされてる方とかっていちゃったりします?」
これはもしかして,などと思いながらセーヤは答えた.
「いないよ.あいつは彼女ができると勝手に僕達に言いに来るやつだから,おそらく今はいないと思うよ」
「それじゃあ,好きな人は?」
「好きな人? う~ん,あいつはアイドルとか好きだから,如月サツキが好きだってはこの前言ってたけど…….あいつ,片思いの相手の名前はあんまり言って来ないからなあ.ごめん,分かんない」
「そうですか……」
明らかに喜びにも哀しみにも見れる複雑した表情だった.これはどう見ても,恋する乙女の顔だった.ここまで分かりやすく顔に出るのも面白いなとセーヤは思った.今みたいに大人しくしているとリホは可愛いのに思う反面,そんなことを思っていることがトモジに知られたら,間違いなくチョークスリーパーでは済まないなと苦笑した.
ちなみにこの時トモジは二回目に沈黙剤を飲まされてからまだ回復しておらず,真っ白に燃え尽きたように気絶していて,帰宅しようとしていたトモジの同級生である三年生達から落ちていた木の枝でツンツンとされていた.この現場状況についてはユイナから説明済みである.哀れ,お笑い担当.
また,なぜユイナがまだ学校に残っているのかというと,リホに三本目のビンを渡されて,「復活したらすかさずこれを投与してください」と頼まれたので,言うなればトモジ復活待ちである.結局,ユイナはシベリアンK2を飲んだときの地面を這いずり回る,お笑い担当のリアクションを見たかっただけである.
セーヤは意地悪くストレートにリホに聞いてみた.
「何? 秋瀬さんはケンのことが好きなの?」
「好きって言うよりか,気になるって言った方が正しいと思います.一目惚れに近いのかな? 正直に言って,今はよく分かんないんです.ただ,石部先輩のこと,全く知らないっていうよりかは少しでも知った方がいいかなって思って…….橋野先輩と石部先輩が仲がいいのは知ってたんです.だから,こうしていっしょに帰ってもらったっていうか……」
「……そうなんだ.そのことを先輩が聞いてたら発狂してただろうね」
「そのためにユイナ先輩に保険を頼んでおいたんですよ.お兄ちゃんには聞かれたくないから…….それより先輩,ほかに何か石部先輩のこと教えてくれませんか?」
「う~ん,ケンのことだから別にいいとは思うけど,こういうのってプライバシーの侵害になるんじゃない? ……だから,あいつのこと,紹介してあげようか?」
「えっ!?」
「知り合いになって,直接話した方がいいんじゃないかと思ってさ」
「そんな……,それはまだ早いですよ.そんなのまだ考えていませんから.ほら,警察の犯人捜査にしても聞き込みによる情報収集が基本じゃないですか.それとおんなじですよ」
「例えに何か違和感を感じるけど,秋瀬さんがそういうならそういうことにしておくよ」
「それじゃ,何か教えてくれませんか? ……まずは王道で,誕生日と血液型とか」
セーヤとリホがケンのことについて情報を共有していた時,学校では未だトモジが白かった.周りにはすでに事情を知った数人の見物客ができる始末で,彼の復活のときを待ち望んでいた.もちろん木の枝によるツンツン攻撃は続行中で,ユイナはビンのふたを開けてすでにスタンバイを終えていた.
いつ復活しても準備万端である.
「そろそろ覚める時間だけど……」
そう言いつつ一時も気を許さないでいると,突然,それも本当に突然,
「エイドリアーンッ!?」
と言いながらトモジは復活(回復)した.しかしユイナに抜かりはない.エイドリアーンの“アーン”で口が全開になっているその隙に,ユイナは一気にシベリアンK2入りドリンク剤形状ビンの口をトモジの口に入れた.
トモジはお笑い担当の称号に恥じない爆笑必然のリアクションをとりながら,三度燃え尽きることとなった.彼の周りではユイナをはじめあまりの面白さ,彼の行動の意表性に腹を抱えて笑っていた.
ひとしきり笑った後,燃え尽きたトモジを放っておいてみんな撤収したのは言うまでもない.トモジが復活するのは,吹奏楽部員が彼を除く全員が帰宅したあとのことになる.
途中リホと別れて独りになると,セーヤはいったん自転車を止めてカバンの中を確認した.今日の昼休みにユズカからもらったシングルCDが入っていることを確認したら,「帰ったら聞いてみないといけないな」と思い,また,忘れずに持ち帰っていることに安堵した.
独りで自転車を走らせながら,セーヤはケンのことを考えていた.
(まさかケンのことが好きだなんて……,先輩には口が裂けてもいえないよな.……あいつは,頭は褒められたもんじゃないけどスポーツができて,それに意外に純情一直線みたいなところがあって,それで中学の頃は結構モテテたんだっけ.……そう言えば,バレンタインの時にケンに渡してくれってチョコレートを渡された時,あれは結構キツかったなあ.僕だって男なんだから…….まあ,悪くはないヤツだし秋瀬さんとの仲を応援してもいいけれど,先輩が邪魔だなあ.まさかあんなにシスコンだったとは,ホント,人は見かけによらないって言うかなんていうか…….そういえば先輩,まだ気を失っているのかなあ.基本的には先輩,いい人なんだけど)
と,思考の対象がケンからトモジへとスライドしていった.
当の本人はというと,無事目覚めて,
「あれ? ……みんなは?」
と一人だけになったという事実を受け入れようとしているところだった.
無事何事もなく帰宅し夕食をたいらげたあと,セーヤはミミからCDプレイヤーを借りて早速もらったCDを聞いてみた.
しっとりと水の流れのようにゆるやかに流れるピアノの伴奏のあとに,弦楽器の美しい音色とリズムを刻むドラムの音がピアノの上に乗り,静かにデクレシェンドすると,いつも聞く声とは全く違うどこまでも透き通る美麗な歌声,歌手如月サツキの美声が部屋中に響き渡った.セーヤはジャケットに写るサツキを見ながら,普段見せるユズカという女性とのあまりのギャップに驚きつつもその実力に耳を傾けずにはいられなかった.
♪“好きになるのに理由はいらない ただあなたにひかれるだけ”
♪“思いふければいつもひとりだけ ただあなたといたいだけ”
(ああ,秋瀬さんは今,これみたいになってるんだなあ)
セーヤは歌を聴きながらそう感じた.よく分からないが,そう感じるだけの魔力がこの歌には含まれている,そんな感じだった.
「きれいな歌ね」
突然の声に後ろを振り返ると,床に座り込んで目を閉じて聞いているミミの姿があった.小さくゆっくりと,リズムに合わせて体を揺らしている.
「全く……,いつの間に……」
「これってサツキちゃんの曲でしょ? へえ~,新曲が出るんだあ.ねえ,なんでお兄ちゃんが持ってるの?」
「……本人からもらったんだよ」
「そういえば,お兄ちゃんの通っている高校に転校してきたんだっけ.……まさか,そんなに仲良くなってるなんて,ミミ,うれしい」
「何言ってんだ,お前.……彼女とコトネちゃんがいとこらしくて,その関係って事」
「へえ~,そうなんだ.……ウソッ,コッちんとサツキちゃんっていとこなの!?」
「ああ,僕も最初聞いたときは驚いたよ.でも,昔会ってるんだぞ.お前は覚えてないかもしれないけど,お盆の時なんかにコトネちゃんちに来てていっしょに遊んだこととか」
「そうだっけ…….覚えてない……」
「お前はまだ小学校に上がる前だったからな.……そういうことだから,このCDのことは内密に.そう本人からも釘を刺されているから」
「うん,分かった.じゃあさ,あとで私にも聴かせてよ.CD貸してね」
そう言ってミミは部屋を出て行った.
(ミミは,僕用にへんな物作ってたりしてないだろうな…….……もう1回聞くか)
一抹の不安を抱えながら,セーヤはプレイヤーの再生ボタンを押した.
CDの回転する音と共にピアノによるイントロが流れて,透明感のある歌姫の声が部屋の中を包み込んだ.曲自体はヒーリングな感じだが,ユズカとコトネが作った歌詞のために癒しの中にも切なさが感じられた.
ちなみにもちろんカップリング曲も収録されていたが,セーヤには“恋するトキ”のように何度も聞きたいと思うほどではなかった.
翌日,ユズカに会ったらCDの感想を言おうと思っていたが,仕事のために二,三日戻ってこないとコトネから聞かされた.それじゃあ仕方ないなと思っていたら,コトネからこんなことを言われた.
「……じゃあさ,ユズの携帯の番号教えようか?」
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