ケンはしばらく笑った後,セーヤのほうに寄り彼の背中を数回軽くたたいた.
「ど,どうした? 突然笑ったりして……」
「ん? いや,なんでもない.……そうか,幼なじみだったなんてな.そこまでは考えがつかなかった.……でも,なんでそのことを黙ってたんだよ.別にオレに知られたくないことでもないだろ?」
いつもセーヤが見る彼に戻っていた.さっきまでセーヤに見せていた,体中が見えない力で縛りつけられるような雰囲気は一切感じられなかった.セーヤはその開放感を,普段ケンに対する態度に変えて言った.
「だから,別に隠しておくつもりなんてなかったんだって.ゴメン」
「そうか.……それじゃあまだ俺にもチャンスはあるってことだな」
「チャンス?」
「ん? ううん,なんでもない,こっちの話……」
ケンはあわてたように大げさに首を振って答えた.この仕草も普段の彼からは見られないものだったが,さっきまで出していた感じとは違って“ケンらしさ”が残っていたようだった.
ケンは片手を挙げて,「ゴメンな,それじゃ」と言うとすぐにその場を離れて教室から出て行ってしまった.セーヤは一人取り残されたようだった.運動部の声が傍らから小さく聞こえてくるだけだった.
若干腑に落ちないセーヤが教室へと戻ると,教室の前の廊下に見知った人物が立っていた.その人物は壁に背をもたれかけて,コツッコツッと片足のつま先を定期的に上げては地面に打ちつけていた.
その人物が何かに気付いたかのようにふと顔をセーヤのほうへ向けると,すぐにもたれかけていた体を起こして彼の方へと歩み寄ってきた.その顔は少しばかり不機嫌そうだった.
「コトネちゃん,何か用?」
「セーヤ君,どこ行ってたの? 待ってたんだから」
不満を発散させるようにいつもより強い口調の第一声だった.しかしすぐにいつもの表情,いつもの口調に戻って続けて言う.
「今日さ,よかったら一緒に帰らない?」
「いいけど……,僕,部活あるんだけど」
「いいよ,待ってるから.確か吹奏楽部でトランペットしてるんだったよね」
「そうだけど……,コトネちゃんに言ったっけ?」
「ううん,ユズから聞いたんだ.ユズも吹奏楽部でしょ.だから.そのユズは今日は仕事でいないけどね」
「ああ,なるほど」
そう言いふと窓の外を見ると,グラウンドでは運動部の生徒たちが活動を始めていた.その中には先ほど彼と一対一で話をしていたケンの姿もあった.活動前のいろいろな準備をしているようだった.陸上のユニフォームに身を包んだ彼の姿はまさにスポーツマンだった.
「何見てるの?」
コトネの言葉に視線を彼女の方へ戻した.
「ううん,別に…….そういえば,コトネちゃんは何か部活には入らないの?」
「私? う~ん,何かはしたいと思っているけど,今はまだいいかなって.まだこっちに来たばっかりだし.今はさ,この辺りのことに慣れる方が先かなって.この前ユズにもちょこっとだけ案内してもらったんだけど,今度セーヤ君もいろいろ案内してね.……じゃ,また後でね」
コトネはセーヤに手を振って自分の教室に戻っていった.セーヤもお返しにコトネに手を振った.恥ずかしかったので小さめに,だが,コトネが相手だと昔の記憶が体に染みついているのか,ごく自然なやりとりのように感じた.
帰りの支度をして部室までカバンを持っていって,部活が終わったら教室に戻らずに直接帰るというのがセーヤの普段の行動だったが,今日は帰りの支度をしたカバンをそのまま教室に置いておき,手ぶらで部室へと向かった.
部活が終わりセーヤが教室に戻ると静かな教室に一人,彼の席にコトネが座っていた.ある一点をじっと見つめているようだった.彼女のカバンは彼の机の横にちょこんと置かれていた.セーヤが持っている小さい頃の明るくてワンパクなコトネのイメージとは全然違う,今のコトネが見せるおとなしく控えめな感じとのギャップにセーヤはドキッとしてしまった.
コトネは戻ってきたセーヤにすぐに気付き,彼のカバンを持ってきてくれた.
「お疲れさま.はい,カバン」
「ありがと.それじゃ,帰ろうか」
「うん,帰ろ帰ろ」
コトネはそのまま教室を出て行ったので,セーヤは彼女の後を追うようにUターンした.
コトネはとんとんと軽快に階段を下りていった.セーヤも引き離されないように一段とばしで下りていった.
生徒玄関は彼らと同じように部活終わりで帰ろうとする生徒たちが何人かいた.靴を履き替えながら友達とおしゃべりをしている人,玄関前で片手で器用にメールをしている人,部活終わりで汗だくになって内履きをはかずに校舎内に入ってくる人…….
その中にはもちろん同じ吹奏楽部の見知った生徒もいた.しばしば話をする後輩でフルートを吹くリホもその一人だ.新入部員の一人である彼女はトモジの妹で,トモジから「よろしく頼むよ」と彼女とはパートが違うのにもかかわらず言われた.その彼女がセーヤに気付いたのか,小走りに彼のほうに寄ってきて言った.
「先輩,今帰りですか?」
「うん,そう.秋瀬さんも今帰りなんだ.……先輩は?」
「お兄ちゃんはもうしばらく練習していくそうですよ.今やってる曲,トランペットは結構難しいみたいですけど,先輩は大丈夫ですか?」
「……まあ,何とかなるよ.ははっ」
テレを隠すようにセーヤは顔を横に向けて言った.
「お兄ちゃんはたいした事ないですから,先輩がすぐにお兄ちゃんを追い抜いちゃってくださいよ.そもそも中学まで剣道をやっていたお兄ちゃんがどうして高校生になってブラバンに入ったのか……,よく分かんないんですよね.楽器を演奏するガラじゃないと思いません,先輩?」
「……いや,ノーコメントで」
セーヤも高校から吹奏楽を始めた,いうなればトモジと同じタイプの生徒だったので,それに同じパートの先輩のことなので何も言えなかった.かわいらしい外見の奥には他の女子高生のみんなと同じ,毒のある発言をするんだなということを認識させられるセーヤだった.
「あんな兄でもうしばらく先輩に迷惑をかけるかもしれませんけど,よろしくお願いしますね.……何かあったら,私に言ってくれればいいですから.お兄ちゃん,ちょっとシスコンの気が入っているようで,私が注意すればすぐに直すと思いますよ」
「へ,へえ~,そうなんだ…….どうリアクションしたらいいか…….とりあえず,今話したことを先輩に,僕に話したってだけは言わないで……くれません?」
ちょっとした過激なカミングアウト内容に思わず敬語でお願いをしてしまった.
「分かってますよ,先輩.……そうだ,先輩,よかったら一緒に帰りませんか?」
「えっ? ごめん,今日は先客がいるから」
そう言ってふと下駄箱のほうを見ると,コトネはすでに外履きにはき替えてセーヤを待っていた.微妙に彼の方を見ているような気もしたので,待たせてしまってはマズイと思い,
「それじゃ,また明日」
続けざまにそう言った.
「そうですか…….また今度お願いしますね.さようなら,先輩」
セーヤは急いで靴を履き替えてコトネと合流した.なにやら怪しげな雲行きをした彼女だったが,それをすぐに察知したセーヤが開口一発「ゴメン,待たせて」と言うとコトネは,
「大丈夫,待つのは慣れてるから」
と,にっこり笑って答えた.その笑顔にはいつもの元気100%な感じがしなかったが,待たされて不機嫌になっていたようではなかったのでセーヤは心の中で胸をなでおろした.
「さっ,暗くならないうちに帰ろ!」
コトネはセーヤの腕を引っ張って二人は玄関口を出た.突然引っ張られたのでセーヤは転びそうになったがなんとか踏ん張り,二人は早歩きで自転車小屋へと向かった.
西の空が赤く色付き始めていた.
二人は横に並んで自転車を走らせていた.西日がまぶしくてセーヤは手で光を遮っていたが,コトネは彼の影に隠れる位置になっていたのでまぶしくなかった.……実際は光を避けるために意図的に隠れていたのだが.
「ねえ,セーヤ君,夏村君って覚えてる?」
赤信号で二人が並んで止まっているときにコトネは言ってきた.今日の昼休みからずっと同じ,今までの出来事をおしゃべりする口調で.
「夏村? えっと……,誰だっけ?」
「タクロウ君って言った方が分かるかな.ほら,いつもセーヤ君をいじ……,え~っと,セーヤ君にちょっかいをかけてた」
「ああ,あの子……」
信号が青色に変わった.二人はゆっくりペダルをこぎ始めた.
「覚えてるよ.いつもいじめられていたな.それで,いつもコトネちゃんが助けてくれたんだよね.『こぉら~』って」
悔しさや恥ずかしさ,つらさ,ムカつきよりも懐かしさの方が勝っていたので,嫌な気分にはならなかった.むしろ,今,隣にいる彼女が当時ものすごい勢いで怒ってセーヤを助けてくれたのを思い出して嬉し懐かし面白おかしいほどだ.
「……でも,今思えば一度も叩かれたりしたことはなかったような」
まぶしい光に照らされながらじわじわと頭の中に蘇ってくる昔の記憶.いろいろな思い出があるがその中にはいつもコトネの姿があった.もちろんそれは今,隣に本物がいることに起因しているかもしれないが,セーヤの思い出にコトネの存在が高いウェイトを占めていることは彼女が昔馴染みの友人,幼なじみであることの証でもあった.
「セーちゃん,気が弱かったもんねえ.私は気が強かったから,私たち,ちょうどバランスはとれてたのかも.……今は,どうだろ?」
「とれてるんじゃない? ……たぶん,変わんないと思う」
「……うん.そうだね」
コトネはセーヤの方を見た.彼はまぶしそうに目を細めながらもまっすぐ前を向いていた.
「それで,彼がなんだって?」
「え? あ,うん,中三の夏休みに入る前だったかな.放課後,夏村君が私の所に来て……」
「野原~.ちょっといいか~?」
立派なガタイとそれに似合った低い声を持ったタクロウがコトネの前に立って,特筆すべきこともなく普段通りに話しかけてきた.いや,唯一ついつもと違っていた点は彼しかいなかったというところだった.
彼から話しかけるときは彼の友達も一人か二人ついていることがほとんどだったため,不思議でもなんでもないが珍しくはあった.
「いいけど,何?」
学生カバンに教科書を入れながらコトネは言った.横に立っているタクロウには顔どころか目線すら向けない.
「橋野のことなんだが~」
コトネは動かしていた手をピタッと止めて,初めてタクロウのほうを見た.
「橋野って……,セーちゃんのこと?」
タクロウは何も言わず首を縦に振った.
「ここじゃなんだから,……来てくれ」
そう言ってタクロウは振り返りゆっくりと歩き出し,教室を出て行った.コトネも無言で彼の後をついて行った.
行き着いた先は誰もいない理科室.二人はドアから遠い窓側の隅に向かい合った.
「で,セーちゃんの何の話?」
「……野原,悪いが,橋野のことは実はなんでもない.俺はお前に話があって,ここに来てもらうために橋野の名前を使わせてもらった.それだけだ.ウソついてすまん」
「え? 何それ…….じゃあ,こんな所に呼んで何の話? 人に聞かれたくないこと?」
「まあ,そんなところだ」
タクロウはガラにもなく自分のほおをかいた.今度は逆にタクロウがコトネに視線を合わせようとせず,窓の外の方を向いている.きれいな青い空と適量の白い雲.典型的な夏の午後.
「実は……な,俺……,……野原のことが好きなんだ.ずっと,前から……」
「……え!?」
開いていた窓から涼しい風が入ってきた.吹奏楽部の生徒たちが鳴らす楽器の音が聞こえていた.蛇口から水滴が一粒落ちた.タンッ.ステンレスに打ちつけられた水滴の音が二人の耳に届いたかどうかは分からないが,タクロウは続けて言った.
「だから,俺と……,付き合ってもらえないか?」
コトネはちょっとだけ間をおいて答えた.
「ごめん」
その言葉を聴いてセーヤは安堵した.昔のこととはいっても,いじめられていた相手に幼なじみを奪われたくはないと思ったからだ.
「セーヤ君をえさにして私を呼び出したりしたからね.その前にちょっかいもだしてたし.付き合える理由なんて,私には何もなかったよ」
それを聞いて再びセーヤはホッとした.しかし何か彼の中で引っかかるものがあった.よく分からないが,無視はできなかった.
「……それで,その後なんて言ってたの?」
コトネはペダルをこぐスピードを上げてセーヤよりも前に出て,彼の方へは向かずに言った.
「忘れちゃった.……うわ~,まぶしいね~」
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