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Ordinary 2. 有名すぎる一般人

「ねっ! ここは前置詞があるから,動詞をもってきたかったら“~すること”にするために動名詞にしないといけないね.前置詞のあとに動詞はおけない,これは覚えておいて損はないぞ」
いつにもまして英語の五十嵐先生がはり切っていた.いつもは髪がボサボサ,白髪は遠くからでも十分見えるのに,今日はばっちり髪型が整っており,しかもきちんと黒く染めている.しかし相変わらずその声だけは大きく,眠たくてもこの声のせいで眠れない生徒がおおい.
 と,いつもならこういう授業形態だったのだが,今日に限っては彼の授業で無理やり起こされている生徒はだれ一人としていず,このクラス中の生徒,いや学校中の生徒はみな緊張感とワクワク感に満ちていた.
 そう,あの噂になっていた有名人が転校してきたのだ.

 時は数時間ほど前にさかのぼる.
 いつものようにセーヤは全く人や車が通らないような道を通って登校してきた.人がいるところよりもいないところのほうが安全だしなにかとのびのびできるからだ.
 いつもその道はセーヤが登校する時間帯はぜんぜん人がいなかったのだが,今日は,その道の途中で自転車ごと倒れている一人の女の子を見かけた.
「どうかしましたか?」
流石に声をかけないわけにはいかなかったのでたずねてみると,同じ学校の制服を着た女の子であった.肩までかかっているきれいな黒髪がひらりと翻り,黒色をした瞳が言葉もなくセーヤのほうに向けられ,そして一瞬目が合った.
「えっ……,あっ,あの~……」
この女性は恥かしいところを見られてしまったかのように言葉をつまらせ,目をきょろきょろさせた.
「えっと……,自転車ごと倒れていたからどうしたのかと思ったんですけど……,大丈夫ですか?」
「……えっ,はい,あの,大丈夫です」
いやに彼女の様子がよそよそしいというか変だった.
「んっ? あっ,ひざをすりむいてるじゃないですか.ちょっと待ってください」
そういうとセーヤはかばんの中から一枚のばんそうこうを取り出した.以前けがをしたときからあったほうがなにかと便利だろうと思いそのままかばんの中に入れていたものだが,意外なところで役に立った.そのばんそうこうをすっとその子に差し出した.
「どうぞ」
「あ,すいません……」
ばんそうこうを受け取ったのを見届けて,セーヤは「それじゃ」とだけ言って先を急いだ.
「あ,あのぅ!!」
突然彼女が大声でセーヤを呼んだので,セーヤは自転車を止めて彼女のほうを振り向いた.
「ありがとうございます」
彼女がおそらく痛むであろう足を我慢して立って一礼した.セーヤも軽く頭を下げて再び前を向き自転車をこいだが,なかなかに心の中はうれしかった.
 その出来事から五分くらい経ったであろうか,セーヤの後ろからさっきの女の子が勢いよく自転車をこいで追いかけてきた.
「はぁはぁ,やっと追いついた.すいません,私,今日あなたと同じ高校に転校してきたんです.制服が同じみたいですから.それで,えっと,初めてなのでついて行ってもいいですか?」
 セーヤはそのスピードに驚いた.五分といっても,自転車での五分はけっこうな距離に相当する.
「……転校生,なるほど,だからか」
「えっ?」
「あ,さっきあなたが転んでいたあの道,ほとんど人がいないから,人がいるなんて珍しいなって思ってたんですよ」
「ああ,そうですか.あの,そういえば名前,まだでしたね」
「あ,僕は橋野っていいます」
「私は,えっと~,赤吹ユズカっていいます.2年5組に入るんです.よろしくお願いします」
「あれ!? 同い年なんですか? 僕も2年生なんですよ.クラスは違うけど」
「ええっ,そうなんですか!? 私てっきり3年生かと思ってました」
ユズカといったその女性は笑いながら言った.その顔を見てセーヤは少し照れてしまった.
「あの,ひざの傷は大丈夫なんですか?」
「はい,たいしたこと無かったですから.ばんそうこう,ありがとうございました」
とりあえずセーヤは一安心し,三度自転車をこぎ始めた.
 はじめ二人は並進して走っていたが,話すこともなくなると,次第にユズカがセーヤの後方へ行ってしまい二人の間に沈黙が続いた.学校まではもうそんなに時間がかかるような距離ではなかったが,結構な時間が流れたかのように感じた.
 そうしているうちに学校の校門が見えてきたが,いつもと違うその様子にセーヤは心臓が飛び出るほど驚いた.普段なら学校の領域をあらわにしている真っ白い壁も,今日は人がたくさんいて壁の白い部分が見えなかったのだ.なぜ今日学校の前がこのような状態なのか,もしかしてなにかの行事があって早く来なければならなかったのか,セーヤは不安になった.
(もしかして,遅刻? だったら違うところから行ったほうがよかったかなあ……)
 セーヤが群衆の前を恥ずかしげに通っていると,急に女の子たちの黄色い声と男たちの『サツキちゃん』コールが始まった.突然の歩道からの叫び声に驚いて何が起こったのか状況が飲み込めないセーヤは,群集の視線を逆にたどってその“サツキちゃん”と呼ばれる人物がどこにいるのかを見てみた.
「もしかして……」
視線の先をたどることセーヤは後ろを振り返った.さっきまで彼のすぐ後ろをついてきたあの彼女がいつのまにかけっこう後ろのほうにいて,うつむいて前を見ることができずほおを赤らめていた.彼女は黙ってセーヤのあとを,なるべく距離をおいてついていった.
 校舎の裏の自転車小屋にまで群集は追いかけてきて,彼女を取り囲んだ.校舎からもたくさんの観客がこっちを見ている.セーヤはあまりの人の多さに自転車を置いても玄関まで行くことができず,立ち往生するはめになった.
(もしかして,あの人って……,なんたらサツキとかって言う……? そういえばあの人も今日転校してくるって誰か言ってたっけ……)
しかし考えるだけ無駄なだけで,この群集が去ってくれるまでセーヤは動くことすらできない状態でしかなかった.
 その後,この騒ぎを聞きつけた先生たちが急いでこの人だかりを対処し,セーヤの後ろをついてきた彼女は先生に囲まれるように職員玄関のほうから校内に入っていった.
 彼女自身は“赤吹ユズカ”だと言っていたがもしかしたらそれは本名で,“如月サツキ”という名前は芸名かもしれない.しかしもしそうならさっきの自己紹介のときにカミングアウトするだろうから彼女とアーティストは別人かもしれない,とセーヤは考えていた.

 やっとの思いで教室に入って,もみくちゃにされた制服や髪を簡単に整えると同じクラスの友達のケンがセーヤに話し掛けてきた.
「なあ,お前今日サツキちゃんと一緒に学校来なかったか? っていうか来ただろ」
突然の質問,というか決め付けにちょっとだけ引いてしまったが,ここは努めて冷静に返答した.
「えっ? ああ,彼女は赤吹って名前で,如月じゃないよ」
「お前気づかなかったのか? あの子が如月サツキだって.そのアカフキってのは本名だろ,どうせ」
さっきセーヤが考えていたことをケンは言った.
「どうかなあ.そのこと特に言ってなかったし…….ただ似ているだけかもしれないだろ」
クラス中の生徒が二人の会話に聞き耳を立てていた.その様子に気付いてセーヤは目線を動かすことができず,背中には気持ち悪い汗がつたーっと落ちていくのが分かった.
「てことはお前,サツキちゃんと話をしたのか!?」
「まあ,少しだけ……」
「チクショー,セーヤに先を越された! 俺もアピールしておかないとやばいぜ」
そう叫ぶとケンはセーヤにすごい形相をけしかけた後教室を飛び出していった.数分後,結果はケンの顔を見れば明らかであった.生気を抜かれたような顔を.おおかた人が集まりすぎて近づくことすらできなかったのであろう.ケンはそのまま自分の席に座って,隣の席に座っていた女の子にビクつかれていた.
(あいつって,なんたらサツキって人のファンだったっけ? 聞いたことないけどなあ.イブニング娘。のファンってなら聞いたことあるけど…….まあ,ご愁傷様なことで)
ケンの方を見てセーヤは悪いとは思いながらも声には出さず笑ってしまった.

 昼食の時間となったのでセーヤは急いで教室をとびだして,混雑する前に購買に行ってパンを買い,そして校内の隅のとある木の下のベンチで食べて,その後昼寝をするのが彼の日課であった.その場所,前庭には花壇がありその周りにベンチもあり,今日みたいに晴れた日には屋上,中庭と並んで人気のある昼ごはんスポットなのだが,彼が今いる場所だけは人がいることはほとんどなく,半ば独占状態だった.確かに,去年の夏秋頃は上から虫が降ってきたりして,お世辞にもごはんを食べる場所に向いているとはいえないのだが,セーヤはそんなに気にしなかった.さすがにパンの上に虫が付いた時は萎えたが.
 さっそくビニール袋を開いて中からパンを出し,一口ほおばった.パンに口の中の水分を吸われてしまったので,パンと一緒に買った紙パックのお茶を口に含んで,そして二口目にいこうとしたその時.
「こんなところにいたんですか? 探しましたよ」
聞き覚えのある声が聞こえたので顔を上げると,今朝,自転車ごと倒れていた例の彼女がそこにいた.たくさん探し回っていたのか,それとも違う理由でなのか,息遣いが荒かった.彼女の右手は胸に添えられ,時々軽く咳き込む.
「ああ,今朝の.どうかしたんですか,そんなに息を切らせて?」
そういいながらセーヤは二口目にいった.パンをほおばったときに垂れ下がったメガネを人差し指でくいっと上げて,もう一度彼女の方を向いた.彼女はまだ息がつらいのか,呼吸をして整えている.視線は地面の方を向いていた.
「……」
なにかを言いたそうだったのだが声に発してくれなかったので,セーヤが代わりにきいた.
「僕になにか御用ですか? えーっと……,赤吹さん,でよかったよね」
「い,いえ,別に用ってほどのものじゃないんですけど.隣り,いいですか?」
彼女の表情が少し明るくなったような気がした.セーヤは首を縦に振って,ベンチの彼の隣の部分を軽く払ってあげた.それを見て彼女は小さい声で「ありがとう」と言うと,セーヤとの間を半人分ほど空けて隣に座った.

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