「まだ春になったばかりなのに,意外とあったかいな」
セーヤは自転車をこぎ,めがねを少し下にたらせながらつぶやいた.学校からの帰りで,時間にして西の空が少し夕ばずんでいる.冬はとうに過ぎ,日が沈む時間も徐々に遅くなっていった.桜の花びらもまだ開いていないこの時期,いつもならばいまだ肌をちくちくと刺す風が吹いているはずなのだが,最近は温暖化のせいなのだろうか,生ぬるく変に気持ちの悪い風が吹いていた.桜といってもそのきれいな姿を見られるのは学校の校庭か近くにある名も無い低い山くらいで,平地にはなんのおもしろみもないねずみ色のコンクリートがただ延々と続いている.花見の時期になると,名も無い山にこの辺りの住民がみんな押し寄せるので低くて小さい山はたくさんの人々でごった返してしまう.その様は毎年の地方のニュースで恒例のように取り上げられるほどだ.
その山に背を向けてしばらく自転車をこぎすすめると堤防にあたった.夕刻だからなのか,人は見当たらなかった.横を振り向けば広く緩やかに川の水が流れているだけだった.夕日のオレンジ色の光に照らされ,川の水の不規則な波に反射されて目に映えるその姿は,どこか神々しさを感じさせた.そこからセーヤはゆっくりと自転車のスピードを抑えて走った.
小学校低学年のころ,父カズマの仕事の都合で田舎風情の漂っていた町からいっぺんして都会で過ごすことになった.この町で生まれこの町で育った彼にとっては,新たな場所への期待と不安でいっぱいだった.ひとつだけ,期待でも不安でもない,悲しいことがあった.それは彼の家の隣に住んでいた同い年の幼馴染と離ればなれになることだ.
内気で物静かなセーヤは,学校ではよくクラスメートからちょっかいをかけられていた.その中心にいたのはタクロウ,クラスのガキ大将のような子供だった.自分の席に座っているといつも同じ数人の子分,もといクラスメートを引き連れてセーヤを囲んでちょっかいを出していた.
「セーヤの甘えんぼ! コトネの尻にしかれる弱虫~!」
セーヤは何も言えずただ下へうつむくばかりだった.内気な性格が邪魔をしていたし,相手がクラスのガキ大将,けんかになったらまず勝てないと察知していた.
その姿を見てタクロウたちは調子に乗ってちょっかいをかけた.仕舞いにはあることないことを言っていた.
「セーヤのうんこたれ~! セーヤの母ちゃんでべそ~!」
「こぉら~!!」
突然教室のとびらの方から大きな声が聞こえた.怒りが込められていて,でもかわいくて,セーヤにとっては聞きなれたけど今は助けの声.タクロウたち一行とセーヤは一斉に発声元へ向いた.そこには腰に両手を当てて立っている女の子がいた.
「タクロー,セーちゃんをいじめるなって,何度言えば分かるの!?」
彼らの方へ歩きながら,その小さな体には似合わない大きな声で叱責した.するとタクロウたちはすぐに散った.
「うわ~,コトネが来たー! セーヤのお嫁さんが来たぞー! 逃げろー!」
彼らが逃げて残ったのは中心で座っていたセーヤ一人.下をうつむいたままだった.コトネは何も言わずにセーヤの前の席に座り,セーヤの顔を覗き込んだ.
「ごめん……」
ポツリとセーヤは言った.
「ううん、セーちゃんが謝ること無いよ.悪いのはあいつらなんだから…….何でセーちゃんをいじめるのかなあ?」
「僕が,弱虫だから……」
「そんなことないよ! 私知ってるもん.セーちゃんはやさしいって.弱虫なんかじゃなくてやさしいんだよ」
慣れ親しんだ町を去る当日の朝,セーヤはコトネに別れのあいさつを言いにいった.今までタクロウ達にちょっかいをされていたときにいつも助けてくれた,そのお礼も兼ねて,彼は引越しの準備を早めに終えて隣の家へと向かった.
いつもと変わらないコトネの家.いつもと変わらない昼下がり.セーヤは玄関の前に立ち,一度深呼吸をした.
「コトネちゃーん!」
いつものようにコトネを呼んだ.しかし,その後いつも聞こえる「はーい」という元気のいい返事が無かった.ちょっとだけ不安になったが聞こえなかったのかなと思ったセーヤは,さらに大きい声でコトネを呼んだ.
「コトネちゃ―ん!!」
呼んだというより叫んだら玄関のとびらが静かに開いた.そして,そこには髪がボサボサのコトネがいた.今の今まで寝ていたのか,パジャマ姿だった.いつもならニカッと笑って出てきてくれた彼女だが,そのときは目に涙を浮かべ,それこそ虫にダイレクトに刺されたかのように真っ赤になっていた.ピンク色のパジャマの,袖の部分だけが何かにぬれたような色をしていた.
「セーちゃん,引っ越すんでしょ? お母さんから聞いたよ.……もう逢えなくなるね」
涙声でコトネは言った.嗚咽しながら目にためた涙を袖で吹き払った.しかし彼女の目からはそれ以上に涙が溢れ出してきた.立っているのもやっとだった.
「そうだね…….だから,お別れを言いにきたんだ.いつもありがとう,助けてもらってばっかりで」
セーヤも彼女の純粋な気持ちに直面して思わず涙を流した.
「あっ……」
コトネは久しぶりにセーヤが泣いている姿を見た.小学校に入ってからは一度も見ていなかった.タクロウ達にいじめられた時も,セーヤは泣いたことなんて無かった.泣きそうな顔をしたことは何度もあったけど,実際に泣いたことは無かった.
「……セーちゃんは,弱虫なんかじゃないよ」
「えっ」
「だから,わたしがいなくても大丈夫だよね? 大丈夫,だ,よね……」
コトネはそのままセーヤに抱きついた.顔をセーヤの胸にうめた.泣きじゃくる声だけが聞こえた.
「さびしいよ……,行かないでよ……」
セーヤを抱く力が強くなった.もし願いがかなうなら,コトネは一生このままで,セーヤを離したくないと思っていた.分かれたくないと思っていた.離ればなれになりたくないと思っていた.ずっと一緒にいたいと思っていた.
しかし,セーヤが彼女以上の力でコトネを引き離した.いじめられていてもやはり男の子だった.セーヤの力の強さにも驚いたが,無理やり離されたような気がして止まりかけた涙がまた溢れ出してきた.セーヤの胸の中では安心だったのに,今は正面にセーヤの顔が見えた.
「ごめんね……」
セーヤは言った.泣きながら言った.
「あえなくても,いつまでも幼なじみだからね」
涙でうまくいえない二人はお互いの目を見てそう約束した.
自然の多い道を選んで帰る.セーヤは昔,コトネと両脇が一面田んぼであるあぜ道をよく歩いていた.時々セーヤの妹もいたし,たまに,お盆の日なんかに妹とコトネのいとこと四人で歩くこともあった.
セーヤは高校二年になる今でもその気持ちが全くの無になることはなかった.意識しているのではなく,その気持ちが心に刻まれているような感じだった.コンクリート地獄であるこの都会で自然が残っているところといえば数が限られている.いつも通る道の中でそういった場所は堤防くらいのものであり,そこを通るたびに無意識のうちに,思い出したかのように心の中でつぶやく.
「そういえば,あんな日があったなぁ」
――と.
朝,家を出てから学校に着き,授業,部活,その後帰る.中学のときから続けているいつもの生活.といっても小学時代はこのサイクルから“部活”を除いただけに過ぎない.あとは,通学手段が自転車に変わったこと,ランドセルを背負わなくなったことぐらい.
帰宅すると玄関隣の車庫に自転車を置き,鍵をかける.
「ただいま」
と,いつものように言うと,
「おかえり」
母ミキエがいつものように言い返した.
セーヤはいつものように二階に上がり,部屋のベッドの上に重たいかばんを投げ出して漫画を読む.するといつも妹のミミが,分からない問題を持って質問してくる.これが彼の得意な教科だったらいいのだが,苦手な科目だった場合は兄妹二人してあーだこーだ言って悩む.そうしていると夕食の時間になる.カズマはたいてい帰りが遅いのでセーヤとミキエ,ミミ,そして祖母のウミの四人で夕食を食べる.祖父カヨエモンは二年前にガンで他界した.
夕飯の後はテレビを見るのだが,ミミがたいていリモコンを支配しているので,セーヤはミミが見ている番組を見るはめになる.この日はある歌番組だった.司会は幅広い年代に人気の熟練の芸人と若いアナウンサー.
「次は如月サツキさんの“True NAME”でーす.この曲は先週オリコンで1位を獲得しました! それではどーぞ」
さまざまな照明と煙幕の中,サツキと呼ばれた歌手がでてきて肩まである茶色の髪をぶんぶん動かしながら激しく歌い踊っていた.観客たちは彼女の歌にテンポにあわせながら手をたたいたり,体を大きく動かしたりしてのっていた.
「すごい人気だな.この人なんていう名前?」
「如月サツキよ,お兄ちゃん.そんなことも知らないの? 今1番人気のアーティストなんだから」
ソファに座って見ていたミミが半ばあきれたように答えた.
「……へぇ~.ちょっと見ないとどんどん新しいヤツが出てくるからなあ」
「お兄ちゃんあんまり歌番組とか見ないもんね.もっと見るようにしたら? これも勉強だよ」
「ははっ,まさか.勉強は学校ので十分」
セーヤは妹のちょっとした攻撃を,慣れたようにさらっとかわした.
如月サツキが終わって,次は男性四人グループの「テロップ」が出てきた.
翌日の学校は昨日の歌番組の話で持ちきりだった.
「如月サツキ、かわいかったよな…….あの顔にあの声にあのダンスは反則だよな」
「テロップもかっこよかったよ~」
それだけあの歌番組は人気のあることがうかがえる.自分の席に座っていたセーヤもクラスのあちこちでの歌番組の話が耳に入ってきた.しかしその番組を真剣に見ていなかったため,何のことを話しているのか分からないことも多かった.
そのざわめきの中,一人の生徒が走ってきて,呼吸もまだ整わないうちに叫んだ.
「おい,みんな! さっき職員室で先生たちが話してたんだけど,今度,この学校に如月サツキが転校して来るって!」
「はっ?」
「マジで~!?」
「エ~! うそ~!!」
この発言である者は泣き叫び,ある者は叫んだ生徒に本当か冗談かを真剣な眼差しで問い詰め,ある者は何の興味も示さず,またある者は昨日夜更かしをしたのか机に顔をつけ寝ていた.この教室はおろか,この教室のある校舎,そして学校中にこの噂が広まった.
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